saienji's blog プププのプゥだぜぃ

ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!

2011のゴジラ

2011のゴジラには初め形はなかった。そのあまりにも巨大な存在が、視認はできぬものの、そこに確実にある事が人々に認識されたのはもう少し後のことである。
1954年に出現したゴジラが、人の過ちによって自然を変容せしめた結果として具体的な姿形を持って出現したことと比較すると、これは一種の進化と呼べるものなのかも知れない。
勿論、ゴジラの上陸地点に住んでいた国民から見れば、この変化は進化どころの話ではなく・・・・・と、ゴジラをネタに一つの寓話を書こうと思ったけれど止めた。
理由は勿論、正真正銘「不謹慎」だからである。
スクリーン上のゴジラは、時の移ろいと共に、恐怖のシンボルから、我々を脅かす強力な外敵から守ってくれるフレンドシップな守護神と変化し、逆にその存在意義を失い銀幕の世界から消失していった。

世論の土俵上で原発反対派と推進派の力が拮抗していたのは、いつの頃までだったろうか?知らぬ間に原発は「CO2を排出しないエコなクリーンエネルギー」として必須のものとして我々の日常に溶け込んでしまっていた。
勿論、何度も小規模な事故があり、その度に問題にはなったが、かってのように世論を二分するような大きなものにはならなかった。
chika自身はおそらく客観的にみれば「やや反原発の側」に属する人間なのだろうが、それでも、この件に関しては語るに値する程の知識も、原発を否定して次のエネルギーの形を提示できるような見識もない。
(「原発しかない」のではなく、「原発からの転換をしようとしない」から先が見えないのだ)程度の理屈ぐらいは言えるけれど、それは言えるだけの話。
ただ常に強い違和感を覚えるのは、この国では色々な問題が「(国民のレベルで)いつの間にかなし崩し的に決着がついていく」事だ。
二つの主義主張が徹底して角をつき合わし白黒を付けるという事がない。その過程の中で認識され、お互いが共有してくべき要素もないまま、いつの間にか、さもそれが全員の総意であったかのような結論がでて、みんながそれに従っている。
この国の人間であるchikaから見ても気持ちが悪いと感じるのだから、諸外国から見たらその様子はまるでマジックのように見えるのに違いない。
それでも上手くやっていくのがこの国の得意芸だったように思う。
ところが、近年になって、この得意芸は国内でのみ通用しグローバル化していく世界では通用しない事がわかった。最近強く思い知らされたのが経済と防衛。
そして今回、、、何度も書くけれどchikaは原発・反原発をこの機に乗じて蒸し返して論じたいわけじゃない。
そうではなくて「なし崩し的に物事を決めていく」流れを、何処かで断ち切らないと、巨大な「想定外」が起こったと時に対応できない足腰の弱い国であり続けるのではないかという不安である。
昨夜の菅総理の会見をニュースで見て、何の感動も覚えず、何の信頼もおけず、いや批判する心さえも起らなかったことに驚いてしまった。
正直言ってchikaは被災地の人々の様子を映し出すTVレポート、特に子どもの姿、生き別れた夫や妻が映し出される度に泣いている。「もう勘弁してください。卑怯もん、なんでウチをなかすん、もううつさんとういて」そう思うぐらい、感情的に脆い。
そんな人間に響かない。この首相は何なのか?いやこれは菅という人物だからではないのだと思う。
谷垣が喋っても同じだろう。今は威勢のいい渡辺がやっても同じだろう。こういう場面では似合うかも知れない石破がやっても同じだろう。
なぜなら、誰もがこの「巨大で心優しい軟体国家」の上で踊っている政治家だからだ。おそらくオバマなら国民の心を奮い立たせるような言葉を発したに違いない。
だがそれはオバマだからではない。アメリカが正常な国だとは思わないが、少なくとも「知らないうちにゆるいムードで国の運命を左右する価値観が固まり全員が吹き流しのように右へならえする」土台はこの国にはないだろう。
正しいのか間違っているのかは後の歴史の判定に任せて、その度にそれなりの決着を付けてきた。だから緊急時に人の心を動かすトップが産まれるのだと。
chikaは我が国のこの特性を全面拒否するものではない。ある時は、この特性が転じて戦後からの奇跡の復活を果たし、震災時における日本人への海外からの賞賛となって返って来るのだから。
しかしある一面では、福島原発から透明の姿で半径を広げつつ被災地を足蹴にしながらやがては首都まで不安と風評と不信で出来た怪光線を撒き散らす2011年のゴジラを生み出しうる事も覚えておかなければいけないと思う。

ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!