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仮面ライダーゴースト 第23話「入魂!デッカい眼魂!」

 この前、仮面ライダーゴーストの感想について『「んなモン、マコト兄ちゃんがタケルに(眼魔世界ってのはこんなだよ)って一言説明してりゃ、全部済むことだベ」で、今回のも含めて、過去10本程のエピソード自体が全て瓦解する仮面ライダーゴーストなんて、感想を語る対象になりません。』で切り捨てちゃったんですが、その思いは今も変わりません。
 最近ではゴーストの事を心の中で「レームダック仮面ライダー」と呼んでるくらいです(笑)。

 chikaの個人的な仮面ライダーの定義は、「本来は人間であった者が仮面を付けて異形の者となり超常の力をライドする・者」です。

 でこの設定の元、各ライダー物語は「人ではない異形の者としての存在の重さ」によって、そのテーマを変えて行きます。 軽いからと言って「面白くないライダー」になるワケではないと思います。

 選んだテーマによって仮面ライダーの異形性の重さがかえって邪魔になる時がありますからね。変身というより憑依という方法で異形化を選んだ「電王」なんかが、その好例でしょう。

「ドライブ」も変身ではなくて「装着」という異形化を選んで、刑事物というドラマジャンルとライダージャンルの融合を試みた面白い作品だったと思います。
 平成ライダー初期の作品群は全て主人公達の「異形の者としての存在の重さ」が非常に強かったと思うのですが、後になるほど、それは薄れ(「オーズ」や「鎧武」など何度か揺り返しがありましたが)、仮面ライダーフォーゼでついに「ガワはライダー、中身は熱血高校生」になり「重さ」は0になったワケです(笑)。

 思えば、この時に、仮面ライダーという冠を外し、別のジャンルを成立させるべきだったかも知れませんね。
 この時点で、恐らく仮面ライダーにおける「人ではない異形の者としての存在の重さ」と「作品テーマ」の相関性というか、「紐付け」が完全に無くなったんでしょう。
 フォーゼは仮面ライダーじゃないけど、「別物」なら、これはこれなりにドラマとしては成立してる。これを混ぜたまま、ライダーブランドを続行させて来たから、凄い混濁が起こって来たんじゃないかと思うんです。

 これをコアな仮面ライダーファンの戯れ言ととってもらっても構いませんが、この仮面ライダーシリーズの変化は、NHK大河ドラマの迷走と構造的にはまったく一緒です。

 NHK大河ドラマは近年、「歴史」の「重さ」と「テーマ」の相関や紐付けを、見失ってしまった。
 恐らく、長寿シリーズと呼ばれるTVドラマが減衰していくのは、マンネリの落とし穴というよりプロデュース上の「先の読み間違え」が大きいんだと思います。
(まあNHK大河は「真田丸」のような救世主が現れたので、息を吹き返したように見えますが、来年の作品で元の黙阿弥になるかも知れません。)
 この経過が行き着いた先に登場したゴーストのタケルは、変身でも装着でもなく、「見せかけの死」で異形化してるんだけど、そこにはもう異形の「重さ」もなければ、紐付けされた「テーマ」もない。

 玩具販売の為だけのおまけCMロングドラマ。「英雄・偉人の魂がなんたら」とかもっともらしい事を垂れ流す分、タチが悪いかも知れない(笑)。微かに仮面ライダーのフォーマットの残骸だけが残ってる感じ。

 はっきり言ってこれなら仮面ライダーじゃなくなったフォーゼの方が作品としてはずっと面白かった。

 で「Amazon」が制作する「仮面ライダーアマゾンズ」の登場です(笑)。
 なんとも言えませんねぇ。この発表会で製作プロデューサーで東映取締役の白倉伸一氏が「仮面ライダー45周年に特別なもの、挑戦的な作品にしたい」「牙を抜かれた仮面ライダーにトゲをもたらしたい」と言ったとか言わなかったとか。

 白倉伸一氏の「牙を抜かれた」と言う言い回しになんか凄い微妙なものを感じるんですが(笑)。
 まあ、すべては現物を見てからって事で。

PS 実社会ではトリクルダウンなんて絶対あり得ないと思ってるchikaですが、「表現者が豊かになっていくと、文化享受者も豊かになる」という文化上のトリクルダウンはあり得るんじゃないかと、思ってます。
 ですから表現者を豊かにするために、文化を享受する者は、極力、良い表現にはグッジョブを「育てる」視点で送れればと思ってます。

(当然、その中には「批判」も含まれますけどね。)

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