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ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!

「八重の桜」第46回 駆け落ち

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 「八重の桜」第46回 駆け落ち。

 久枝がやけに女の生臭さ(しかも京女の底意地の悪さも内に潜ませて)を感じさせて、生理的に見るのが辛くなったんだけど、途中で八重と襄の北海道旅行のエピソードが挿入され、ちょっと一息付けた感じ。

 と言っても北海道での八重の相手は剛力彩芽で、しかも母親役なんてゆー彼女の演技力からは逆立ちしても無理な姿を見せつけられたんだけど、それでも会津編への追憶がそうさせるのか、見ている方まで、奇妙な和み方をしてしまった。
 戦時下で人は異常な精神状態になるのだそうだ。

 勿論、マイナス面の方が多いのだろうが、精神的に純化され、瀬戸際の高揚も手伝って人の生きざまが美しく輝いて見える時もあるという。

 八重は、どう見ても一途な頑固者で武士的気質、所謂女性的な複雑さを持つ女ではなく、それ故に戦時下では、鉄砲撃ちの女として、他の女性よりもより一層美しく純化され輝いたのではないかと言う気がした。
 で京都編になると、人々には余裕が生まれ、様々な思惑や情念があちこちでぶつかり渦巻くこととなる。

 そんな中でも八重の基本的な気質は変わらないから、八重は勢い、自分の意志のみを貫き通すだけの空気読めない猪突猛進型の人間として視聴者の前に現れる。

 これはある意味、史実に近い新島八重の人物象に近いのだろうが、ドラマの主人公としては魅力的とは言い難い。

 その辺りを脚本を書いている方も理解しているようで、あの手この手の小細工をしかけて、八重の可愛らしさを演出するのだけれど、八重の生きてきた記録をトレースする構造上どうしても無理がでてしまう。
 大枠が、この時代にあって自分の夫を「襄」と呼び捨てに出来る強烈な女性なのだから、いくらドラマ的に「ヒロイン属性」に近づけようと補正を書けても無理なわけだ。
 ・・・と言った所に「八重の桜」はさしかかっているのではないだろうか?
 そういう意味で考えても会津編で見せたような、「主人公三割・歴史の動き七割」というウルトラCの構成を京都編でも、やればよかったのではないかと今でも思う。
 新島嬢の方に多くの視点を当てても良いし、会津編で見られたようなダイナミズムは得られないだろうが、ソレなりに当時の歴史上の人物の動きを追いかけていっても、同志社にいる八重の姿に引き戻す事は可能ではないかと思う。
 今回のエピソードも八重サイドから見る徳富蘆花であるから、こんな姿にしか見えないのであって、徳富猪一郎と徳富蘆花の確執とか、徳富蘆花の抱えたコンプレックスと自負、彼の文学に対する理念がもう少し丁寧に描かれていれば、もっと違った印象の放映回になっていたのだと思う。

 。。。ってchikaには「東京バンドワゴン」があるからいいもん。て又、出た(笑)。

 少し前に「東京バンドワゴン」は「逆・寺内貫太郎一家」なんだって書いた事があるけど、あれ、撤回します。
 今回・第六話に至る各エピソードの積み重ね見てると、これは一種の、大人の童話というのか、ファンタジーなんだなと。
「人生は君が思っている程、つまらなくはない。生きてる値打ちのあるものなんだよ」みたいな。
 「照れ」もなんにもないぐらい、「良い話」を、毎回、バンバン仕掛けてくる、その度胸に惚れました。

 今回は、“六波羅探書”で古書の値付け勝負ですか?で最後は、、どっきりカメラかよ~(笑)。
 これからは「一杯の掛け蕎麦」連続推理ホームドラマとよばさせていただきます。
 ああ、みなまでゆーな。すずみと青が同じ部屋で生活しててなんで性交渉の雰囲気が全然ないのかとか、亀梨和也演じる青って元ヤンキーに絶対見えないし、かと言って「本当は本好きにも見えない」とか、我南人、印税で喰ってるのかとか、何時の間に、東京バンドワゴンが古書店の東の雄になったのかとか、いちいち、言わないの、言わせないの。
 何度も書くけど、制作側がそーゆー覚悟を持って作品作ったらなんとかなるもんなの。ラブだねぇ(笑)。

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