「みのもんた」と「クロコーチ」と「図書館戦争」
犯人追跡のためならどんな汚い手も使う悪徳刑事、黒河内(長瀬智也)が主人公のドラマ『クロコーチ』(TBS系)に開始早々、視聴者からのクレームが相次いだという。
問題となったシーンは第1話、剛力彩芽が演じる部下が、拳銃の音に驚いて失禁、それを長瀬がスマホで撮影した部分。
第2話ではさらに「捜査情報を教えてくれないと、お漏らし場面をメールしちゃうよ」と長瀬に脅される場面もあり、これを「セクハラ、パワハラ」だとする抗議があったという。
「お漏らしを撮影すること自体が女性蔑視だという意見や、男性刑事の女性の扱いが倫理的に問題だ、というようなクレームでした」とTBS関係者。
ってこの「サイゾー」の記事自体の寄稿動機が、「マッチポンプ臭」がしないわけでもない。
でも「クレームが相次いだ」かどうかは別として、クレーム自体はあったんだと思う。
みのもんた騒動も、氏の「やめなければ収まらない風潮に僕は感じた。人品骨柄、収入、住む家までたたかれるとは思っていなかった」の言葉通り、本質的な問題は、この事件に対する氏の動向や「親の責任」というような具体的なものではなく、正に「世の中の風潮」なんだと思う。
この「得体の知れない裁判官」の栄養源の最も大きなものはマスコミなんだろうけど、「彼」の欲望は「叩く為の正義」を常に求めていて、マスコミはそれに敏感に反応しているだけのようにも見える。
『クロコーチ』の場合はさすがにメディア側の人間らしい知恵で、この仕組みを上手く利用しているようだけど、事が大きくなって「ミイラ取りがミイラにならないように」、正に黒河内のように上手く立ち回って欲しいもんです。
だって今の所、お気に入りの番組なので(笑)。
でこのニュースをきっかけに思い出したのが映画版「図書館戦争」。
テーマ自体はさほど目新しいモノではなく、「それは前触れに過ぎない、本を焼き払う処では人間をも焼いてしまうのだ(Das war ein Vorspiel nur dort, wo man Bücher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen.)」、これ自体も何度も歴史上繰り返されて来たこと。
それに映画自身も、このテーマ自体を本腰を入れて取り上げてるというよりは、単に背景として捉えてる感じで、やっぱ売りとしては、岡田准一と榮倉奈々(笑)。
chika的には榮倉奈々を違う女優さんに差し替えてれば、もうちょっと画面に重みが出たんじゃないかと思うけど、岡田准一の見せ所もSPアクションだったりするから、まあこんなもんなんでしょう。
映画の冒頭で、 メディアに対する取り締まりを正当化する法律“メディア良化法”が施行された日本で読書の自由を守るための自衛組織“図書隊”とメディア良化委員会の武力対決が避けられない状況を「何を大げさな、たかが本でしょ」って言いる一般市民が登場するんだけど、映画ではそれ以上の演出がないから「それは前触れに過ぎない」ってゆー「怖さ」が余りない。 その代わり何をしてるかと言うと延々と榮倉奈々を撮ってるわけで、なのに後半、一気にど派手な銃撃戦になるから笑っちゃうんだけど、“メディア良化法”が強化される材料に「本(メディア)に悪影響を受けて犯罪が起こる」という言い分が利用される事だけは、制作側の意地なのかちゃんと練り込まれてた。
いつも思うんだけど「ここが大事」なポイントなんだと思う。
(快楽犯罪的な)犯罪を犯す人間はそういう事を取り扱った本(メディア)が好きなわけで、本(メディア)を読んだから犯罪を犯すワケじゃない。
でも両者の間は完全な不可逆性で結ばれてるわけじゃないんだよね。
人間って元から不完全で未熟な存在だらか、悪書に影響を受ける青少年ってゆーのは残念ながら厳然として存在する。
って事は、大切なのは「本(メディア)を読んだから犯罪を犯すワケじゃない。」ってちゃんと言い切れる精神的にタフな「社会」が必要だってこと。(勿論、人間は社会的動物だという認識が前提だけど。)
今の日本ってそーゆータフさがどんどん希釈されているような感じがするんだけど、どうなのかなぁ?
「それは前触れに過ぎない、本を焼き払う処では人間をも焼いてしまうのだ。」
ここで語られる「本」は、今じゃ色々なものに読み替えられるよね。