無題
春の到来を告げるような大雨の日に思ったことがある
天候や経済の乱調が大きく目立ったここ数年の中で
やって来たあの日3.11の大震災からおおよそ1年。
日本の世の中は基本的な価値観を含めて
大きく変わったと震災直後は言われたが
本当の所はどうなんだろう?
絆・絆と言われてはいるが
瓦礫を受け入れる自治体は少なく
放射能汚染を拡散するなという市民感情も
示される被爆基準そのものが信用できない政府の元では
理解できなくもない
正に混迷だ。
少なくとも自分の身の回りでは、絆ではなく、政治、しいて言えば人間への不信と不安が価値観の大きなベースになりつつある。
あの地球がみぶるいすような揺れを二度体験した。
一度目は死を覚悟した。
二度目は瞬間的に遠くの震源地をおもんばかった。
正直に言って大津波を知らないで済んだ自分が幸運だった。
あんなものに抗える人間などいない。
人間の想定など自然の猛威の前ではバベルの塔の崩壊の昔から何の役にも立たないことは判っていたはずだ。
20メートルの高さの津波を想定すれば安全と誰が言い切れるのか、
20なら30、自然とはそんなものだろう
しかし日本の原発は総て海岸線にある
大量の水が必要だからだ
最初から原発事故と心中する覚悟がなきゃ出来ないことだ
それでも日本経済の為にはそれが必要だという
多くの人間の生活を痛めつけてでも投機マネーが動き回るのと同じ事だ
そして人々は投機マネーが絶対悪のようには言うけれど、
投機マネーこそが「経済」の本当の姿だという事をみんなは心のどこかで知っている。
瓦礫を受け入れることが絆ですか?とこざかしく問い直されることがある。
けれど逆に聞こう、瓦礫を拒否する事が絆ですか?と。
とりあえず今この時には、他に方法がない不完全な選択枝もこの世には数多い。
最善ではなくても選ぶこと自体で思いが試される時があって
その決断を引き延ばす事が罪な場合も多い。
帰りたいたいのに帰れないふるさとも
帰りたくないふるさとも
心の置き所という意味では同じことなのだろう
問題はその心の置き所自体が傷つけられたということ
復旧復興への道筋はまだまだ遠い。