saienji's blog プププのプゥだぜぃ

ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!

お盆過ぎの海水浴と仮面ライダーオーズ

ここ最近は、夏の終わりと仮面ライダー放映の終わりが被ってしまって、なんだか妙な感じ、お盆が終わると、まだ空気は暑いのに、海月や海の状況やらでソッコーで海水浴が危なるあの感じかなぁ。
そうそう、自業自得と言っちゃ可愛そうだけど遊泳が出来なくなっている海水浴場に行って事故にあってちゃ仕方ない、、夏休みが、まだあるったって、それは個人の都合で、自然も世間もそれに合わせたりしないんだから。
今日は、そんな感じに妙に座りのワルイ時期にお似合いと言えばお似合いな、仮面ライダーオーズのまとめ感想をちょっくら書いてみたい。
考えてみればこの作品、スタートから妙に引っ掛かる作品だった。
前作のWは「娯楽」としてのライダーを楽しませて貰ったし、なんと言ってもあんなに「悪女」が描かれた仮面ライダーは珍しいと思う。
だからと言って、何か特別に記憶に残る「テーマ」みたいなものがあったのかと言うとそれは皆無(笑)。
ディケイドは論外だったけど、強烈に記憶には残ったな〜。ディケイドあんた、「記録より記憶」長島選手ですか?
その点、オーズは蛸足とか見た目の異様ぶりはあったけれど、テーマ的には「これって仮面ライダークウガへのオマージュ?」みたいなスタートを切った作品で、小林脚本による現代版仮面ライダークウガが見れるのかとちょっと期待したんだけど、折り返し地点を過ぎた時点でどうも違うな、これは肩の力を抜いてお気楽な気持ちで楽しまないと、かえって美味しく賞味出来ないんじゃないかと気がつき始めた次第。
結果的にはその判断は正しかったように思うのだけれど、なんとなくモヤモヤした思いは今でもある。
そういう意味で仮面ライダーオーズはchikaの中で特別なライダーの一つにランクインしたわけだ。
平成仮面ライダーの金字塔であるクウガの正統伝統者と思われる特撮がもう一本ある。これは最初、chikaもかなり期待したんだけど、後半、オーズのようになにか取り留めのないものになって「気分で終わる」すかしたエンドを迎えていた。
「大魔神カノン」である。
「大魔神カノン」はクウガの最新バージョンという己の自重に耐えきれなくなったのではないか?と思ったりしている。
オーズがクウガへのオマージュだとするなら、オーズは、「大魔神カノン」と違ってクウガの自重を旨く分散して作品として成立したように思うのだが、、。

 クウガは全てのエピソードが、最終決戦に赴くゴダイの覚悟・愛しい人々との別れ・人間関係の決算へと集約されていった。
任侠ヤクザ映画路線のようでもあり、ラストはまさしく「明日のジョー」な気分だった。
しかもラストのラストにはゴダイの「正のヒーロー」らしい、その爽やかな姿をまるで夢の中の出来事のように映し出すというおまけ付きで。(ああこんな風にゴダイが生き延びていてくれたらなぁ・・みたいな)
一方、オーズは「自己犠牲が欲望」という非常にやっかいな己のパッションに気づかないで、最終決戦に自らもつれこんでいく映司の姿があった。
こちらも再び旅に出た映司の姿が最後に流されるというおまけは付いているが、ゴダイと違う所は、未練がましく「死んだ」相棒アンクが映司につきまとっている所だ(笑)。

「アメコミヒーローの解体と再生」は、昔から良く言われるところだが、日本でもジャパン特撮ヒーローの解体と再生が、何回目かのサイクルに入っているのかも知れない。
仮面ライダークウガでライダーは新時代に突入し、アギトに入って今までの「孤独を背負う唯一人の宿命ヒーロー」の枠組みが壊され、群像ライダーとなった。
中でも最も大きな転換点となったのは仮面ライダー龍騎だったと思う。
番組のキャッチコピーは「戦わなければ生き残れない!」。
「13人の仮面ライダーが自らの望みを叶える為に最後の1人になるまで戦い続ける」という従来の仮面ライダーの世界観からは(コドモ番組としても)まったく考えられない設定が与えた衝撃は大きかった。
この龍騎のメインライターとして小林靖子女史が登場する。(ただしプロデューサーやサブライターとしての井上氏とは色々あったようで、「龍騎」の色は完全に小林脚本だったからとは言えないようだ。)
小林女史は仮面ライダーで生き残り物語をかくという、とんでもない縛りの中で1年間のウチのほぼ三分の二話分を構築したのだ。
 これが18指定の映画なら問題はないだろうが、子ども向けのヒーロー番組で、しかも登場するライダーは、どこかの宇宙の果てからやってきた超自然的な悪魔ではなく、それなりに生活背景を持つちゃんとした人間なのだ。
 これがバトルをやって暴力的にしかも「残酷ではなくて(残酷だと言うクレームはあったそうだが、、)」ちゃんと死んでいくのだからその手腕に舌を巻いたものだ。
 しかし、何故、たった一人が生き残らなければならないのか?だとか、そこから派生する大きすぎるテーマについて、実はこの龍騎という物語の中ではあまり語られていない。そこにあるのは、各ライダー達が他のライダーに及ぼす関わりだけである。
 井上氏と小林氏の各ライダーへの切り口は、格段な違いを見せたが、大テーマや設定自体は彼らにとってさほど重要ではなかったようだ。
龍騎はテーマに付随する人間関係(あるいは闘争)の描写を重視した作品になっていた。

オーズの場合テーマは名目上、「欲望」である。
確かに、全48話中、幾つかのエピソードは「欲望」について語られているのだが、これも龍騎と同じ仕組みで、実は「欲望」など大した問題ではなかったようである。(そう言えば電王でのタイムパドラックスネタはあまり厳密ではなかった印象がある。)
オーズの核は、結局の所、アンクと映司、時にはアンクと映司に絡まる比奈の関係性がメインになる。
そしてその脇を固めるように後藤と伊達、後藤と伊達にからまる真木。 真木とグリードという関係性が総てだったと見た方がよい。

 ここでオーズの中では「大人な存在」として描かれていた伊達が、最後に最大の敵キャラボスとなる真木を「嫌いではない」と言った理由を考えてみたい。
 「総ての物事は流転する内に醜くなる。」頭が良すぎる真木は自分の極個人的体験からその絶対的真理に辿りついてしまう。
 ただし「美醜」とは、人の持つ価値観の一部分でしかない事も気づいているのが彼なのだが、あえて真木は姉への強すぎる思慕の念からか、その事に目をつぶっている。
非常に切ない幼児性を偽装した真木の「狂気」。伊達は真木のその切なさや偽装ぶりを愛したように思える。
鴻上も又、自分が「欲望こそが世界を進化させる」という絶対的真理に辿り着き、さらにその思いこそが彼の「生」という経済を支えるに至っている人物で、そういう意味では真木のよき理解者なのである。
(一応、経済界で功成り名遂げたとされる人物の生活活動は客観的に見ると利潤追求の為に費やされているに過ぎないんだけど、この方達の内面は決してそうではなく、むしろ利潤追求とは相容れないような「善」に属する価値観で満ちあふれている。どういう心の屈折操作をおやりになっているのかは判らないんだけれど女王様をやっているとその心のたわみを直撃出来るので与し易い。以上、鴻上や真木の心理を推し量る上で、関係があるようなないような話。)
 一側面的な絶対的真理に取り付かれたものの一人として、その真理と共に心中しようとする真木を止める事は、鴻上にとって必然だったのではないかと思う。
ちなみに鴻上にとって「オーズ」とは、正に彼にとっての「イコン」だったのではないかと思える。

伊達明はこの世界の中で導師の役目を果たしているように思えた。
後半、激しい成長ぶりで映司を追い抜いてしまった後藤。
自分の弟子としてそんな頼りなかった後藤を選んだ伊達。伊達には触れられない何かを内に含んでいた、大人のクセにどこか危なっかしい映司。
ついに自らのグリード化を厭わず世界を救おうとする映司を見て「そんな手で誰が救える。」と伊達。「自分一人で背負い込もうとするな。」と後藤。
伊達によって照らし出される、この映司と後藤の比較は面白かった。

 クウガは導師を必要としない完成した存在だったように思う。
勿論、クウガは昭和ヒーローのように完全な克己性を持っていた訳ではないし、自らの弱さも時には周囲に臭わせている、でもやぱりクウガは、笑いながらも一人で全てを背負う、あるいは背負うことの出来る、唯一人のヒーローだったのだ。
 ただしクウガには一条薫という盟友がいた。
自分の悲壮を投影でき、共有出来る相手としての一条薫。この辺りは昭和ライダーと違って、時代が要求していた「やさしさ」の反映なのかも知れない。
アンクは映司の盟友のポジションにはいるが、最後の最後まで「友情を持って」は映司とは関わらないというスタンスで結び合わされている。
 がっちり手と手を手を組むのがどこか恥ずかしいという思いがあるようだ。
そのくせ、作り手の側のそういった事柄への期待は実に濃厚に感じられるのだけれど(あっ小林女史の場合はボーイズラブか(笑)。
二人の間柄は、まるで確実性を期待しながら確実性を恐れているような振る舞いなのである。結婚しちゃうと恋愛じゃ無くなっちゃうから嫌、みたいな(笑)。
後半、アンクがグリードとして「命」を求めた事によって、映司とアンクの関係は作品的にも旨く成立したけれど、そうでなければ、かなり難しい展開になっていたに違いない。例えばアンクが映司にワザと殺されてやるとか、盾になって犠牲になるとかが関の山だったろう。
それにこの二人は、wのようにハードファックしたまま主人公二人で敵に特攻をかけても似合わないのだ。
こうやってクウガとオーズを並べながら比較していくと、オーズの場合、仮面ライダーというヒーローの物語を紡ぐために、なぜこんなに遠回りをする必要があったのかってことに気付く。
確かにこういった特撮ヒーロー物語には、遠回りをした分だけリアルにみえる、という不思議な属性がある。
それにしてもオーズは遠回りをしすぎている。
「自分探しの旅」などというchikaが大嫌いな甘ったるい言葉があるけれど、映司の場合は、更に巧妙で、一度「自分探しの旅」をプチ完成させた上に、さらにソレを喪失した所から話が始まってい。
クウガなら、ゴダイの胸の中で一瞬の滾りや思いの中で結末がつく所を、オーズでは実に多くの人間達が映司に関わって、その動きの中で一人のヒーロー像を造り出すわけである。
ちょっとうがった言い方をするとクウガを分解すると、伊達や後藤が映司と同じ比率で出てくる。つまりこの三人の最強コンボでやっとクウガになるってこと(笑)。
最初に「大魔神カノン」が「クウガ」の後継として位置づけられる特撮作品と書いたけれど、「大魔神カノン」が後の方になるに従ってグダグダになっていったのは、いくら現代におけるリアルタイムな問題を作品に取り入れようと、それを消化するシステムが「クウガ」の手法のままであるなら、今の時代について行けるワケがないからだ。
時代についていけないなら、端からそんなファンタジー創作など諦めて、話としてのドライブ感だけを求めれば良かったものを「大魔神カノン」はそれをしなかった。
オーズはそこの所を「遠回り」によって旨く回避したように見えたのだが、、やはりどこか計算が狂っていたのかも知れない。
 一方、遠回りをしないで最初から熱い、いや熱いところから始めるのが前提というワンピースみたいな創作のムーブメントもある。
こちらの場合は遠回りの代わりに、これでもかというくらいの「試練」が主人公に繰り返し与えられる。
そして繰り返し繰り返しヒーローは熱い仲間達との友情によってその試練を乗り越えていくのである。
その繰り返しがビートになる。リズムになる。
テーマ性は二の次、いかに快いビートとリズムを鑑賞者に与え続けられるか。
これが次世代ライダーへのヒントになるかも知れない。
正直言ってあまりそんなライダーは見たくないけれどね。

ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!