saienji's blog プププのプゥだぜぃ

ニューハーフな心で世界をおしおきよ!!

大芝居

大河ドラマ龍馬伝」第27話のサブタイトルは「龍馬の大芝居」。
このサブタイトル、毎回、外れるとゆーのか放映内容をまったく反映していない感じがするんだけど、今回ばかりは内容そのもの、ってか脚本展開自体が「大芝居」。
龍馬が武市と遺贈を助ける為に隠密で土佐に帰るなんて、そこまでやっていいんかい?
タイムトラベル物なんかだと歴史改変に主人公や敵役が手を出してしまう事が多いんだけど、結局、超自然の「復元力」が働いて、みたいな展開が多い。
龍馬伝の場合は、脚本家が神となりその「復元力」を結構器用に行使して、結果的に話は史実ポイントからは大きく離れてなかったりするもんなぁ。
今回の龍馬の「大芝居」も、最終的には武市の切腹という史実に行き着いちゃう運びに脚本上で展開するんだろうけど、だったら何故、わざわざ龍馬をそんな風に動かすのかって事だわな。
 弥太郎は、目の前の武市と以蔵の状況と、自分のおかれた立場に苦悶してて、その苦悶を見た弥太郎の家族は理解を示してくれるんだけど、それでも弥太郎はどうしようって悩んでいるわけね。まあこれが普通の人間の姿でしょう。
それに対して颯爽と現れた龍馬は、家族に縁切り状を書かせ、東洋殺しの罪を引き受けるという離れ業をやってのける。
「英雄と一般人」、まあこの対比が描きたかったんでようが、なんだかなーって感じですね。
この放映回に至るまでの福山龍馬の積み上げが(脚本での描き込み方が)中途半端だから、なんだかこの姿みても「龍馬ってほんとにすげぇ奴」って所に至らない。
今まで色々な友達をこの幕末の動乱の渦の中で助けてやれなかった悔しさを爆発させて「今度ばっかりなんとかするきに、、」みたいな仕掛けもあるんだけど、それでも見てる方は「すげぇ奴」って感じに感情が爆発しない。
それならこんな無茶な設定しないほうがいいんじゃないかと。(まあ勿論、これはchikaの感覚だけどさ)。
 これに対して、それほど人物描写に時間が掛けられなかった長次郎の「商人に戻るか?武士でいるか。」の煩悶、「わしには志があったがじゃ!!」の叫びに、結構説得力があったのは不思議。
多分それは、長次郎に対しては脚本上でも人物設定にブレがなかった事だろうし大泉洋さんもそのつもりで演じ続けて来たからだと思う。
対して主役たる龍馬はどうなのかと言えば・・うーん難しいなぁ、人物設定にはブレがあるとも思えず、それでもこんな大きな見せ場を用意しても今一って感じ・なんだかいつまでたっても人誑しをやりながら実は空回りの人生を疾走し続けてる福山龍馬って・・。
まあなんだかんだ言っても次回で2部完結編。
ついに武市と以蔵が果てるとき、chikaがずっと考えてきた以蔵の結末(心の)の付け方も見られる事だし。
そして、あの「日本を今一度せんたくいたし申候」の台詞を吐く限りには、福山龍馬だって今までの龍馬じゃないんだろうし。

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